2231(仮) 第四五話

 その後ろに見える空は、やや暗い雲が広がり始めた。さっきまでうっすら白い雲が広がる程度だったのに、彼が新たな雲を率いてきたかのようだ。気持ちのいい晴天は、徐々に下り坂へ向かうらしい。

 本格的に降り出すにはまだ時間がありそうだが、万が一の場合、人数分の雨具は多分ない。鞄の中にある、骨組みの折れた折り畳み傘ぐらいだ。

 僕の目の前で、米利刑事はハシゴを登ってきた男と僕らの間を塞ぐように動きながら、ホルスターの銃を抜いた。織林刑事も、僕と桂花さんを後ろに押しやりながら、その横につく。僕はそれをしっかり見ながら、カバンの上から手を当てて傘の存在を確かめる。桂花さんの手によって曲がってしまった時のまま、ひしゃげた形で中に収まっていた。

 米利刑事は銃口を男に向けながら、「奴は誰だ?」と僕に尋ねた。相手の顔を見てパッと思い当たる節はないが、言動や状況から鑑みるにアイツだろう。

「多分、真境名です」

「真境名だと? 奴は君が排除したはずでは……」

 米利刑事の疑問に、僕も首を傾げた。僕が意識を失う直前、彼と彼の大事な人を確かに撃った。その時の指先の感覚、目の前の光景は未だにハッキリ覚えている。真境名はともかく、遊川への銃撃は幻覚であってくれた方がありがたい。

 真境名と思しき人物は、コートを靡かせながら、ゆっくりこちらに近付いてくる。

「そこまでだ。そこで止まれ」

 米利刑事は彼の足元を撃ち、足止めさせる。織林刑事も右手で拳銃を抜き、米利刑事の横で控えている。同時に、左手を僕らの方へ向け、必死に動かしていた。小声で、「通信機、通信機」と繰り返した。僕は素直に従い、そのまま渡した。

 織林刑事は受け取るなり、まだ続いていたグレゴール氏との通信を切り、新しい場所へ電話をかけようとする。彼女がそれを耳にあてがおうとした瞬間、持っていた左手ごと撃ち抜かれた。

 真境名はこちらに銃口を向け、笑顔を浮かべた。撃たれた織林刑事は、穴が空いた左手を抑えて悶えながらも、真境名を睨みつけている。

「お互い、野暮は止しましょうよ。人生最後の貴重な一時間、少しでも有意義に過ごしたいじゃないですか」

 真境名は、米利刑事に語りかけるように言った。そこには、幾らかの侮蔑も混ざっているように思えた。それを感じ取ったのか、米利刑事はやや苛立った様子で真境名を睨みつけている。彼は負傷した織林刑事を後ろに下がらせ、少し前に出て銃を構え直した。

「お前を撃てば、我々の勝ちだ」

「無駄ですよ。予備の私は、いくらでもいる」

 真境名の言葉に、米利刑事は表情を曇らせた。

「何なら、ここで死んでみせようか?」

 真境名は、僕らに向けていた銃を自分のこめかみに持っていく。米利刑事が「止せ」と止めなければ、流れるような動きで躊躇うことなく、引き金を引いていただろう。

「ったく、本当にツマラナイ奴らだな」

 真境名は鼻で笑い、口角を上げて冷たい笑いを浮かべながら、銃を下ろした。銃口は腕に従って自然と床に向けられ、特に僕らを捉えている様子はない。ただ、織林刑事の手を撃ち抜いた速さを鑑みれば、微塵も油断できない。

「それで、用事は何だ? 一時間、そこでボーッとする趣味はないだろう?」

 米利刑事は「余計なことをするな」と言わんばかりに僕の方を向き、真境名に近付き過ぎないよう、左腕を僕の前に出した。

 真境名はタワーの端に近寄り、縁の向こうに広がる街や海に視線をやった。上空の雲はいつの間にか分厚くなり、かなり黒ずんで来ている。

「親父が見ていた景色を眺めて死ぬってのも、悪くないと思ってね」

 彼は転落防止の段差を超えて落下しないように気をつけながら、遠くを見ていた。

 今にも降り出しそうな天気を反映し、海の色もあまり綺麗とは思えない。好条件とは思えない眼下の景色を眺めていた彼は、僕の方へ顔を向けた。

「あとは君らの悔しがる顔を見たかった。それだけさ」

 真境名は穏やかな笑みを浮かべて言った。

「私と詩恵留を殺してまでやり遂げようとした君の、失敗する様を見届けに来たんだ。罪深い救世主が、ただの罪人に堕ちる瞬間を」

 真境名は僕をジッと見つめながら、元の場所へ移動した。米利刑事は最低限の威嚇を込めて銃口を向けるが、引き金を引く気配はない。その眉間や額には、脂汗が滲んでいる。

「その瞬間を、ただジッと待つのも退屈だろう。私と君が、ウラジミールとエストラゴンなら話は別だがね」

 真境名に銃を向けていた米利刑事は、顔だけこちらに向けて「おい、どういう意味だ?」と尋ねた。左手の痛みに耐えている織林刑事は、「私がポッツォで、先輩がラッキーってことですよ」と答えた。米利刑事は「俺がラッキー?」と首を傾げ、まだ意味が掴めていないらしい。

 上空から、ゴロゴロと雷鳴が聞こえてきた。稲光はまだ見えないが、そのうち本格的な雷雨になるらしい。真境名は時折ピカピカ光る雲を見上げる。

「神のご来光、審判を待つにはふさわしい場所か。それを木に見立てて、不条理劇でも繰り広げるか?」

 彼は、ハチ公が取り付けられている黒い柱を指しながら言った。自ら機械仕掛けの神を名乗る時点で、不条理劇の脚本兼演出であるのは揺るぎない。

「まあ、ただの冗談だ。さあ、そこのポッツォ。お前のラッキーを私に差し出せ」

 真境名はスッと腕を伸ばし、僕と僕の隣を指差した。米利刑事は彼の言葉に混乱しながら、僕らの方を見る。僕はチラリと、隣にいた桂花さんを見た。

「そうだ、ポッツォ。物分かりがいいじゃないか」

 真境名は、やや大きな声で言った。僕と視線がかち合った桂花さんは、「えっ、私?」と自分を指差した。彼女は僕に、「私が、何?」と自然な問いを発した。僕は、上手い答えを見つけられない。

「私の大事なものを奪った罪だ。贄を捧げて償うがいい」

 答えを迷う僕に、真境名は「さあ、早く」と付け加える。

「私が行けば、良いってことね」

 桂花さんは、真境名と僕のやり取りで色々と察したらしい。真境名は、「その通りだ、早く来い」と彼女を手招きする。僕は真境名の元へ行こうとする彼女の手を掴み、引き止めた。米利刑事も、織林刑事も、彼女に「行くな」と告げる。桂花さんは、僕の手をさらに上から包み、「大丈夫だから」と震える声で言った。重ねられた柔らかな手も、小刻みに震えている。

「一つだけ、条件がある」

 桂花さんは顔を上げ、真境名に言った。

「私はどうなっても良い。その代わり、みんなを助けて」

「聞いたか、救世主? 健気な願いじゃないか」

 真境名は一瞬下を向いて、目頭を抑えた。顔を歪ませ、本当に涙を流しているらしい。彼は鼻を啜りながら、顔を上げた。涙を流しながら、微笑んでいる。

「その願い、確かに聞き届けた。さあ、早くこっちに来い」

 真境名は桂花さんに腕を伸ばす。米利刑事と織林刑事は、二人揃って真境名に銃を向けるが、間に桂花さんがいて引き金を引けない。僕は彼女の腕を掴んだまま、どれだけ強く振り回されても、その手を離さない。

 伸ばした腕に、雨粒が当たる。一瞬の冷たさを肌に感じた。とうとう雨が降ってきたと、一瞬顔を上に向ける。引っ張られた瞬間、視線を元に戻す。眉根を寄せ、心底怒った表情に、水滴が頬を伝って流れる桂花さんの顔が見えた。

「ーー離せって、言ってんの」

 桂花さんの自由な方の腕が、僕の目の前に伸びて来た。強烈な張り手が、僕の頬に叩きつけられる。僕はその一瞬、あまりの痛さに手を離す。その瞬間に、桂花さんは手が届かないところまで走っていた。

 真境名は自分の下に駆け寄る桂花さんを、胸の中に迎え入れる。銃を構えた現職の刑事が二人もいるのに、二人とも桂花さんがいるおかげで、下手に手が出せない。

 ーーイヤだ。何かを手放すのも、何かの犠牲になるのも、もう沢山だ。

 僕は、離れていく桂花さんに、必死に腕を伸ばした。彼女に触れそうなところで、真境名の銃口が僕の額に突きつけられる。

「俺の女だ。汚い手で触るんじゃねぇ」

 米利刑事が咄嗟に僕の首根っこを掴んで、後ろに下がらせる。織林刑事は前に出て、真境名に銃を向ける。真境名は桂花さんを盾にして、彼女のこめかみに銃を向けた。

「下がれ、下がれ。もっとだ、もっと」

 真境名は荒々しく拳銃を持った手を動かし、僕らを柱の方へ下がらせる。自分もジワジワ後退り、ちょっとやそっとでは手が出せない距離を取った。

初稿: 改稿:
仮面ライター 長谷川 雄治
2013年から仮面ライターとしてWeb制作に従事。
アマチュアの物書きとして、執筆活動のほか、言語や人間社会、記号論を理系、文系の両方の立場から考えるのも最近の趣味。